カトリック那覇教区の歩み

その1

 1549年、フランシスコ・ザビエルの来日後、日本に派遣される宣教師たちが琉球に寄港した記録は複数あるが、日本本土への入国を伺うための寄港であり、継続的な宣教活動は行われてこなかった。
 司祭が沖縄に滞在したのは1844年フォルカド神父がフランス戦艦に搭乗して来島したのが最初である。フォルカド神父は那覇郊外の小さな古寺で2年の歳月を過ごしているが、日本本土への入国を待つための滞在であり、琉球王府から監視され軟禁状態におかれていた。そのため、沖縄において布教が行われることはなかった。1848年、フォルカド神父の補佐として一緒に来ていたアドネ神父が那覇で死去。那覇市泊にある外国人墓地に葬られている。

その2

 1858年、通商条約による日本の開国以後は、沖縄の寄港地としての役割は影をひそめ、1927年3月18日、沖縄県は鹿児島県とともに長崎教区から分離して鹿児島使徒座知牧区とされた。その間も沖縄において何ら布教らしい取組みはされていない。
 鹿児島使徒座知牧区となってから、1930年、フランシスコ会(カナダ管区)のペトロ神父とマキシム神父が中村伝道師を伴ない来県、那覇市久茂地町に沖縄教会を創設した。
 1936年、大戦前の微妙な状況下で、ローマ教皇大使の命により沖縄教会は閉鎖されるが、124名の受洗者の記録が残されている。

    ミカエル神父と戦前の信徒たち

その3

 第2次世界大戦の結果、沖縄県はアメリカ軍の占領するところとなり、サンフランシスコ講和条約によって、沖縄県および鹿児島県南西諸島奄美群島はアメリカ合衆国の軍政下に入った。
 1947年1月13日、琉球列島(トカラ列島、奄美群島、沖縄、宮古、八重山群島)は鹿児島使徒座知牧区より離れ、教皇庁直轄の琉球列島使徒座管理区として一時的にグアム使徒座代理区に委託された。その間、琉球の使徒座管理区長となったグアム使徒座代理区のカプチン会員アポリナリス・バウムガートナー司教は米国ワシントンの国防省と折衝して、琉球列島へカプチン・フランシスコ修道会(米国ミシガン州デトロイトの聖ヨゼフ管区)より宣教師を派遣する許可を得て、同年9月5日、2人のカプチン会宣教師フェリックス・レイ神父とオーバン・バルトルドス神父が沖縄に上陸した。両師はしばらく滞在の後、琉球列島での新しい布教事業を始めるため、北部の奄美大島へ出発した。

その4

 1948年、奄美の出身で戦前の神学生だった石神忠真郎氏が勉強の継続とカプチン会入会のため渡米。
 1949年1月21日、琉球列島はグアム使徒座代理区から離れ、カプチン会のF.レイ師が琉球列島使徒座管理区長に任命された。同年F・レイ師は沖縄本島に司牧の座を移す。
 1951年F・レイ教区長によって創設された「聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会」の最初の入会志願者が、東京の「お告げのフランシスコ姉妹会」の修道院にて修練を開始した。
 1952年1月25日、カプチン会聖ヨゼフ管区がニューヨーク管区とシカゴ管区に分かれ、琉球列島はニューヨーク管区に委託された。同年2月28日、ローマ布教聖省は奄美群島を除く南西諸島の北部8島(宝島、小宝島、悪石島、諏訪瀬島、平島、臥蛇島、中之島、口之島)を琉球列島使徒座管理区から鹿児島使徒座知牧区へ移管。同年ペトロ・バプチスタ石神氏がニューヨークで司祭に叙階される。
 1953年12月25日、琉球列島使徒座管理区の南西諸島奄美群島が日本復帰して信託統治から鹿児島県へ行政移管した。
 1955年5月3日、鹿児島教区設立とともに、同年5月8日、琉球列島北部5島の奄美群島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島)の教会管轄権が鹿児島教区に正式に編入。

  F・レイ神父とオーバン神父

その5

 1968年6月9日、F・レイ教区長(琉球使徒座管理区長)は司教に叙階されたが、1972年1月24日急逝。
 1972年5月15日、沖縄が日本復帰。同年12月18日、教皇庁は琉球使徒座管理区を那覇司教区に昇格して1973年2月11日、初代司教にカプチン・フランシスコ修道会の石神忠真郎師を叙階、那覇教区司教に任命した。那覇教区は日本の司教区のひとつとして、長崎大司教管区所属の司教区となる。
 1997年1月24日、石神司教の引退に伴い、コンベンツアル・フランシスコ修道会の押川壽夫師が那覇司教に任命され、同年5月25日、司教に叙階され、現在に至る。

教区のあれこれ

 戦後60年が過ぎた現在、歴史の浅い教区であるとはいえ、人々の記憶から忘れ去られるものも多い。
 那覇教区の歩みに印された様々な足跡を紹介しておく。

カトリック建築部 カプチン会のバレンタイン神父やルーシン神父の指導の下、最初は真栄原の原野に、後には与那原に移って教会建設に当たる信徒のみの建築部があった。最盛期には60人の成人男性が携わっていた。小禄のカプチン修道院、チャペルの建築を最後に建築部は解散した。
開南教会ミシン部と
ミッションランドリー部
F・レイ神父が初めて沖縄に足跡を印されて最初に目にしたのは、戦争で伴侶や家族を失い、精神的にも物質的にも困り果てた人々の姿であった。
そこで沖縄におけるカトリックの最初の慈善事業として、開南にミシン部とミッションランドリー部が創設された。特に女性たちが自力で生活の道を切り開くことが出来るようにとの教区長の志に基づくものであった。
琉球大学カトリック研究会
(カト研)
最初の頃のメンバーは既に80歳を超えておられるが、若い力が那覇教区の大きな力であったことは疑いない。
聖母診療所 アメリカから招聘された「病人の回復なる聖母修道会」の修道女たちが安里教会に隣接して診療所を開設していた。
修道会は解散して現在はなくなっているが、カプチン会のルイス神父の双子の妹が同会に所属していて、2人揃って沖縄での宣教に当たられた。
守礼の家・コレジオ学生寮 現在復元された首里城がある地には、戦後すぐに琉球大学が建てられていた。
そのため首里地域には学生が多く、下宿屋もたくさんあった。離島や遠方から進学してくる信徒の子弟の為、首里教会に隣接して守礼の家(コレジオ学生寮)が建てられ、多くの学生が利用した。
首里教会での結婚式 首里教会で最初に婚姻の秘跡を受けられたのは、奄美で宣教師たちを手伝い、大学卒業後に沖縄の大学で働かれていた故永野善治、園子ご夫妻であるが、戦後の物資もまだ乏しい中、オーバン神父の妹さんが着たウェディングドレスを送ってもらい、花嫁はそれを着て結婚式に臨まれたとのこと。そのドレスは首里教会で婚姻の秘跡を受けた最初の3組の花嫁が着用した。