ウェイン司教、新年メッセージ。
あけましておめでとうございます。
新たな年を迎え心あらたまるこの時、新たな歩みをはじめるにあたって、今年の教区目標とともに特別な祝福を送ります。
神に希望の錨をおろすなら すべては祝される
吹き荒れる嵐の中でも、荒れ狂う波に翻弄されても『希望の巡礼者』として神の祝福のうちに主によって、主と共に、主の道をまた新たに歩み始めましょう!
人生は時の旅路、私たちは時の旅人です。この世に生を受けたその瞬間から、すべての人は時を経てゆく旅人として存在します。誰一人時の流れの外にいる人はなく、どんな人も生きている限り刻々と流れ去る時間の中で、外的にも内的にも常に変化してゆく状況に置かれているのです。そのような人間存在のあり方を人はよく船旅にたとえてきました。
順風の時、逆風の時 荒れ狂う高波の時、穏やかな凪の時。どの人生にも良いと思える時もあれば、最悪と感じる時もあるのです。目前の状況に一喜一憂し、目的を見失い右往左往する時もあれば、しっかりと目標を見据えて前進する時もあるでしょう。また、人生の海原の広大さと自由さに気付くと、逆に何を頼りにどこに向かえばよいのかに戸惑い、孤独を感じることさえあります。
新たな歩み出しの時を迎えた今、何を頼りにどこに向かっているのかを確認することは、とても大切なことです。そうしなければ、先行き不安で旅立つことさえできなくなります。時は常に流れ、同じ状態に留まっていられないのに、自分の殻に閉じこもりそこから歩みだすことができない凝り固まった精神状態へと陥ってしまうのです。
昨年末に始まった『聖年』は、私たちに神への立ち返りの旅路へと招くにあたって、先行する神のゆるし(免償)を約束します。この先立つゆるし、神の受容がなければ、私たちは希望を抱くことができません。まず神が先に私たちをゆるし、私たちを信じて駆け寄り、ご自身のすべてを開き与えなければ、私たちから神を探し求めることはできないからです。
でも、希望があれば旅立てます。先行する神の愛に希望を見出だし、その後押しを受けて漕ぎ出すなら、喜びと幸せに満ちた旅路を進むことができます。イザヤは預言します。神は、「疲れたものに力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ四十・29〜31)
兄弟姉妹の皆さん、人生の荒波は誰もが経験します。旅路に困難は付きものです。どんなに苦難の時が訪れようとも嵐は必ず過ぎ去りますが、この嵐に堪え、この苦難を乗り越えるためには希望という錨が必要です。神へのあこがれ、神への希望はどんなに荒れ果てた時空の中でも私たちを神ご自身につなぎとめ、人生の大海原を漂流することなく、豊かな旅路としてくれます。「わたしたちが持っているこの希望(神の約束)は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入ってゆくものなのです。」(ヘブライ六・19)
愛である神により深く錨をおろし、その結びつきを強めることで、暖かで明るい希望につつまれた信仰者の旅路は、どんな困難に出くわしても、それを乗り越えることができます。奥深い安心と喜びがその旅路のすべての行程を包み込み、すべてのことが祝福となります。
さあ、神の愛の輝きのうちに分け入る未来を目指し、希望の錨を胸に抱き、新たな時の旅へ漕ぎ出しましょう。
2025 New Year's Message
“If we Anchor our Hope in God, everything will be a Blessing”
Dear Brothers and Sisters of Naha Diocese,
Happy New Year! As we start the year 2025, I want to wish you and your
family a very prosperous new year. Every 25 years the Catholic church celebrates
a Jubilee Year, which we call a Holy Year. During the Holy Year 2025 there
will be events in Japan to deepen our faith and strengthen our bonds with
the Lord. Your pastor will explain to you how the Jubilee Year will be
celebrated in our diocese. The theme of the Holy Year is: “Pilgrims of
Hope!” Pope Francis feels strongly that the world is very much in need
of hope. In the Bible, 1 Corinthians 13:13, it states that there are three
things that will last forever: faith, hope, and love. While we learn about
faith and love, we may not know much about the virtue of hope. To have
a better understanding of the virtue of hope, and in line with the theme
of the Holy Year, I have chosen the words, “If we Anchor our Hope in God,
everything will be a Blessing” as the aim for Naha Diocese this year. There
are two scriptural texts that are very helpful to understand the virtue
of hope. The first is Hebrews 6:18-19. “We who have found safety with him
are greatly encouraged to hold firmly to the hope placed before us. We
have this hope as an anchor for our lives. It is safe and
sure, and goes through the curtain of the heavenly temple into the inner
sanctuary”. Based on this scriptural text the symbol of hope in the church
has always been the anchor. A boat tossed on the sea is a symbol of the
pilgrim church. It may also be interpreted as a symbol of our individual
journeys. Anchoring our life in God is the only sure way to be able to
survive any storms or
disasters that we may encounter.
The second text is Isaiah 40:31: “Those who hope in the Lord will renew
their strength. They will soar on wings like eagles; they will run and
not grow weary; they will walk and not be faint.” In other words, those
who hope in the Lord will be blessed in every way during their lifetimes.
It does not mean that we will not have problems. But even when we have
problems, God will be at our side to help us. For example, many people
during the height of the Covid pandemic lost hope that things would return
to normal again. But others who trusted and placed their hopes in God,
knew that He would never abandon us. Anchoring our hopes in
God allows us to see things and events with a different perspective. This
leads us along a path of t rust in God whe re e verything be comes a blessing.
Have a wonderful New Year. May it be filled with God’s love and his peace.
As Pilgrims of Hope let us anchor ourselves in God and let the New Year
be filled with every blessing.
Bp.Wayne F. Berndt
那覇教区の兄弟姉妹の皆さん
今年もまたクリスマスシーズンが巡ってきました。年ごとに繰り返し祝うキリストの神秘の中でも、最もポピュラーでキリスト者か否かにかかわらず、世界中の人々が祝う日となっています。それだけに、クリスマスの本来の意味やメッセージは薄められ、かえって伝わりにくくなっているのかもしれません。
それゆえ、私たちキリスト者には「クリスマス」と呼ばれる「救い主イエス・キリストの降誕」の出来事に秘められた神の恵み=メッセージを毎年繰り返し祝いながら、らせん状により深く味わい、より高くその神秘そのものに出会っていく使命が与えられていると感じます。聖書にしるされた「主の降誕」にまつわるエピソードはいくつもありますが、今回は「三人の博士の旅」を取り上げながら、その神秘の一端に触れ、味わい、深めてゆきたいと思います。(マタイ二・1〜12参照)
三人の博士は、「東の方から」来たと聖書は記しています。神を見失った諸国民の間から旅立った博士たちは、星の導きに従って救い主に出会う旅路に就きます。当時の旅は、困難と危険に満ち、それこそ命がけの行為だったでしょう。安心・安全・安定を第一に考えるならば、そのような旅はよほどのことがない限り自ら望んで行うものではなく、むしろ、それを避けるために安寧を求め、目先の安らぎを乱す要素を排除することに力を注いでいたはずです。しかし、聖書が示す神の民の歴史を見ても、人が自らの考えや力によって安心・安全・安定を求めるとき、その陰に他者へのしわ寄せや排除が潜んでいます。
だから一時的には繁栄と安定を得られても、それを永続させることは出来ないのです。あの理想的なダビデ王朝でさえ衰退したように、そこには必ず人間の至らなさや罪が隠されているからです。同様に、現代の私たちの日常生活の陰にも多くの人の犠牲や苦しみ、悲しみや死があります。格差、貧困、差別、戦争、環境破壊、災害、難民、強制排除などの多くの課題は、私達の日常生活と決して無関係ではないはずです。
博士たちが暮らしていた「東の方」は、文明が発達した地域で、決して劣悪な場ではなかったと思われます。彼らが「博士」と呼ばれることからしても、三名はそれなりに高貴な立場だったこともうかがわれます。それでも、その場は神を知らず、人の力や考えが支配する地域で、物質的には繁栄し何不自由無く過ごせても、愛と慈しみに満ちた理想の世界ではなく、多くの人の犠牲の上に成り立った世界だったのでしょう。自分のいる世界の状態の裏に隠された欺瞞と虚飾に気付き、そこから旅立つことができたのは、星の光に神の招きと神が示す理想と希望を見出したからであり、その永遠のいのちの光に憧れ、それを追い求めたからなのでしょう。
自ら敢えて危険や困難を望んでいたわけではなかったはずですが、しかし、それでも目先の安心・安全や居心地の良さを失う覚悟がなくては、決して旅立つことはできなかったはずです。だから時として、旅の途中の不安や危険、困難や恐怖に怯え、元の場所や状態に逆戻りしたかったことでしょう。しかし、それでも歩みを前へ前へと進めることができたのは、日常の安定と居心地の良さに満足せず、輝く星の光に理想を見出し、神の招きに希望を抱き、神に聴くこと、それに応えること、すなわち神との対話=祈りのうちに歩んだからでしょう。
このような旅立ちと歩みがなければ、彼らは救い主に出会うことはできなかったはずです。肉としての私たちは、常に物質的に安定することを求めてしまいがちですが、霊としての私たちは物質的な安定だけに満たされることはありません。神の似姿としての私たちは、神に憩うまで安らぐことはないからです。ですから、様々な困難が予想され、不安に駆られたときこそ霊的な目で物事を眺め、そこに示される星の光、聖霊の導に希望を抱き、時のしるしに示される神の招きに応えて、祈り(神との対話)のうちに信仰の旅(神への旅路)に踏み出さなくてはならないのです。変化に対する不安や恐怖を紛らわすことなく、ありのままの弱く小さな自分を認め、委ねて、神のみにより頼みながら歩み続けることにしましょう。信仰者個人としても、その集いである教会としても、真の救い主と出会い続ける信仰の旅路に勇気をもって歩み出しましょう。
いまの状態にとどまることなく旅立つこと、神への歩みを決してやめないこと、たとえ死の陰の谷を歩むことになったとしてもその歩みを止めないこと、霊的な旅路に身を置くこと、信仰の旅の途上につねにとどまることで、その先にではなく、その行程のすべてが主の平和に満ち満ちた、神からの恵みの時となるでしょう。この道は主への道、この道は主からの道、主こそわが道そのものなのだから。
皆さんお一人おひとりが、また私たち教会共同体が、真の救い主である幼子イエスと出会い、その祝福と平和と喜びにみたされた神への道である主イエスと共に常に在らんことを。アーメン。
那覇教区司祭・有馬マテオ神父、10月29日帰天
2024年11月3日(日)午後4時からお通夜:開南教会
2024年11月4日(月)午後1時から葬儀ミサ:開南教会
神父様のためにお祈りください。
2024年6.23 沖縄慰霊の日
ウェイン司教 平和メッセージ
神のまなざし 島人(しまんちゅ)の目線
― 島人のまなざし ―
碧い海、青い空。遠い彼方を見つめるまなざしは、まるで見えない世界を見ているかのよう。島人の目線は、狭い地上ではなく、無限に広がる海のかなた、空のかなたにいつも向けられている。まるで見ることのできない海のむこうからやってくる何か良きものの訪れを待っているかのように。
小さき島での生活は、他所とのやり取り、交易によって豊かになり、成り立ってきました。こうして、交流を大切にする文化が育まれ、他所とのつながり、他者との信頼が何よりも大切にされる島社会が形成されたのでしょう。「万国津梁・ばんこくしんりょう」(
万国を結ぶ懸け橋)という言葉もこうした経験から生じた自らの理想像と言えるのでしょう。
またこのような目線で他者の見る沖縄の視点は、「いちゃりばちょーでー、ぬーぬふぃだてぃぬあが」(出会えば兄弟、何の隔たりがあろうか)というホスピタリティ溢れる黄金言葉(くがにくとぅば)をも生み出しました。それは、周囲を海に囲まれた小さな島という環境によって培われ、与えられた賜ものなのかもしれません。
このように友好的な、誰をも兄弟姉妹として迎え入れる文化は、時として、特に悪意に対しては無力であるかのように思われがちです。それゆえ、侵略や敗北、また被支配への恐れから他の多くの国や地域が武装し、暴力的な手段を選択するのでしょう。しかし沖縄は、凄惨な地上戦の戦場とされ、戦後のあらゆる苦難を経てもなお、「いちゃりばちょーでー」の精神を保ち続けています。
どんなに敵対し、搾取し、支配し、すべてを奪おうとする相手にさえも非暴力の抵抗を貫いています。それは、人間としての弱さを認めることからくる相互扶助の精神とそれに基づく他者尊重の表われなのです。
このように私たち人間が他者を必要とし、他に頼らなければならない存在であるならば、それを認め、他者と協力して共に生きることを目指すのか、あるいは自己の必要性を満たすために力ずくで他から奪い取るのかの選択を迫られる存在でもあるとも言えるのでしょう。
― 誰のための平和? ―
平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から「対話」を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと「武力」を選択しています。
「自分達の安心・安全」だけを平和と考え、これを守ろうとすることがエスカレートすると、更に悪いことに「自分たちの平和」を守るための戦争は、自分たちには被害の及ばない他の場所を選んで行うようになります。
いのちと存在を破壊する戦争、しかもそれが一部の地域、一部の人間が犠牲となるように仕向けられた戦争ならば、これはもはやジェノサイドと言わざるを得ません。
一部の人間の犠牲を前提としていることを覆い隠すのに都合のいい言葉があります。「防衛」という言葉です。
しかし、一地域の犠牲を前提とする「防衛」とは、いったい誰を守っているのでしょうか。何を守っているのでしょうか。
「攻めなければ攻められる」防衛論が一見正論のように思われがちですが、それは、戦禍が及ばないように守られた安全な場所にいる人々の理論です。戦場とされる場にいる人々の視点に立てば、有無を言わさず人に苦難と死を無理強いする凶悪な考えであることは明らかです。
― 沖縄の視点から ―
かつて戦場(いくさば)とされた沖縄の視点からすると「攻めれば、必ず反撃される」「武装こそが武力行使を招く」のであり、九十九%の国民を守るためには、一%の人間の犠牲は致し方ないと言う考えは、とんでもない暴論です。
実際、九十九・四%の国土(沖縄県以外の地域)を『守るために』国土の〇・六%の県土は、国策によって敵国に差し出され、そして今も供与され続けています。さらにこれに加えて、今度は中国を念頭にかつての敵国同士が結託し、再び沖縄を武装強化し、戦場にする準備が始まっています。
ミサイル攻撃が主流の現代の戦争では、どんなに『守備』を唱えても守りようがないことは誰の目にも明らかです。それでも沖縄に軍備を増強するのはなぜなのでしょうか?
最初の攻撃を避け、戦争の始まりを察知し、本当に守りたい多数者への犠牲を軽減するためではないでしょうか?
強大なミサイル攻撃に東京も大阪も福岡も何処も安全な場所ではないはずなのですが、どうして
そこに迎撃システムは配備されないのでしょうか?
それはそのような軍備がなされた場こそが最初の標的となるからです。ミサイルはミサイルの呼び水です。そのようにして大都市へのミサイル攻撃を遅らせるため、あるいは躊躇させるため、あるいは戦略、策略の手段とするために沖縄とそこに住む人々をまるで道具のように扱うことは、誰にもけっして許されません。
なぜなら沖縄のすべては、日本・中国・米国、あるいは世界中のあらゆる国や地域と同じ価値と権利を有しており、その存在は誰によっても侵害されてはならないからです。すべての人が自分の町にミサイルが置かれ、そのことで標的になると考えてみるべきです。強制的に危険な状態に置かれることを自分事として、当事者として考えるべきです。沖縄の視点から、防衛力強化の実相を見るべきです。
― 神のまなざし ―
私たちが「父」と呼ぶ神様は、すべての人の『父ちゃん』です。だから、あなた方は兄弟姉妹として「自分のように互いに愛し合いなさい」と命じる「いちゃりばちょーでー」の神様ともいえます その父である神は、「一匹の見失った羊を捜すために、他の九十九匹を置いて出かける」神でもあります。
九十九%を守るために一%を犠牲にするお方ではけっしてありません。
神のまなざしは、常に助けを必要とする者に向けられ、いのちが失われないよう、弱きものを探し求めています。そして、弱きものの立場に立って寄り添い、必要な助けの手を差し伸べようとなさっています。
世界各地の戦争・紛争を沖縄の視点で、そして神のまなざしで見てみましょう。そこにこそ解決の糸口は見出だされるはずです。
仕方ないで済ませないでください。
戦争によっていのちを奪われ、脅威にさらされ、苦難を強いられている人の立場から考え、その立場に立った選択をしましょう。あなたのその選択こそが、末永く続くすべての存在を支えるまことの平和をもたらす神の手となるのです。
そして、この沖縄の地に眠るすべての霊の声に応え、すべての存在と共に、まことの恒久平和を祈り求め、あらゆる戦争行為を止めるため、決して諦めることなく完全な武装放棄に向けて行動することを誓いましょう。
2024年 復活祭司教メッセージ
皆さん、ご復活、おめでとうございます。
Happy Easter!; Feliz Pascua a todos
Chúc Mừng Lễ Phục Sinh; Maligayang Pasko ng Pagkabuhay!
キリストが死から生命へ
復活徹夜祭に多くの兄弟姉妹が入信の秘跡、すなわち洗礼、堅信、ご聖体を受け、わたしたち教会共同体の新しいメンバーになられました。こころからお喜び申し上げます。
復活徹夜祭の典礼に次のような導入の言葉があります。「皆さん、主イエス・キリストが死から生命へお移りになったこの最も聖なる夜、母である教会は、皆が一つに集まって祈りのうちに徹夜するよう呼びかています。わたしたちは神のことばを聞き、 洗礼と感謝の祭儀によって主の過越を記念します。こうして、わたしたちはキリストとともに死に打ち勝ち、神のうちに生きる希望を持つのであります。」
キリストが死からいのちへお移りになったことはわたしたちの信仰の核心です。わたしたちがキリストの死に対する勝利にあずかるために洗礼はあるのです。復活徹夜祭で朗読されるローマ書(6・3-11)が教えているように、洗礼とはキリストの死と復活にあずかること、キリストとともに死に、キリストと共に新しいいのち生きるようになることです。罪に支配される古い自分が死に、キリストの復活のいのちを受けた全く新しい人間として生まれ変わることを意味しています。
しかも、洗礼によるキリストの死と復活への参与は、肉体の死後のことではなく、今この世に生きている時からすでに始まるいのちへの生まれ変わりなのです。
同じことを、復活徹夜祭の第七朗読エゼキエル書 (36:25-26)は次のように教えています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての遇像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と。だから私たちは、洗礼によって生きながらにして、全く新しく生まれかわることができるようになるのです。外見は変わらずとも、あるいは内面も弱さにあふれていても、わたしたちはありのままでキリスト・イエスに従い、何度誤ってもその罪を認めて神へと立ち返る時、すでに神への道を歩んでおり、新たないのちに生きる者となっているのです。どんなにみじめで苦しい状況にあろうとも、どんなにしあわせで満ち足りたときにあっても、神への愛と隣人への愛に生きるとき、私たちには自覚できなくても、すでにキリストと共に死からいのちへ移っているのです。この救いの神秘に生きましょう。まるで死後のみの世界であるかのように語られてきた天国にではなく、キリストの死と復活によって今、すでに、ここにある、まことのいのちの道、キリストの道、神の御許(みもと)への道を歩みましょう。
信頼とゆるしと奉仕の道、愛の道を歩むことによって、あなたのうちにすでに始まっている神のいのち、永遠のいのちを輝かせましょう。その輝きは、さらなる救いをもたらします。
徹夜祭の洗礼式では司祭はすべての受洗者(全てのキリスト者)に次のことばを述べます。「あなたがたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」
2024年2月11日「教区の日」
あけましておめでとうございます。新たな年を迎え、新たな歩みをはじめるにあたって、この被造界で同じ時を共有するすべてのものに、心から新年の挨拶を送ります。そして、この素晴らしい被造界を創造し、時を定めて導き、わたしたちに歩み寄って時の中に身置き、今もいつも救いのみわざを成し遂げてくださる三位一体の神を賛美します。
創造による時のはじまりと救い主の到来の時のはじまりは、しばしば対比的に語られます。原初の時のはじまりに置かれた神の似姿は、自身の聖性に気付かず、自ら聖なる神を離れることによって、神からの永遠のいのちを失ってしまいました。他方、救い主の到来による新たな時のはじまりに置かれた神の似姿は、いのちの与え主と共にいることによって聖性を保ち、永遠のいのちにいたる神の救いのわざの協力者となったのです。その根本的な違いはいったい何だったのでしょうか? 人祖は、自らが神のようになれると思い、神でないものの言葉を信じ、神以外のものを選択しました。他方、マリアは神のみことばを受け容れ「おことば通り、この身に
成りますように。」(ルカ1・38)と表明し、「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)ことを信じ、神と共に生きることを選択したのです。
いのちの与え主である神と共にいることで、いのち輝くマリアの姿に接したエリザベトは、その胎内の子と共に喜び踊り、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカ1・45)と歓喜の叫びをあげます。こうして救い主イエスは到来し、救いのわざが始動することになったのです。神の呼びかけに「はい」と応えること、そして「私たちと共にいる神」と共に生きること、神から離れないことによってマリアのいのちは輝き、その尊い聖性の光を灯し、神のわざに協力し、救いの泉である主イエスを現わしたのです。
新しい年のはじめに教会が「神の母マリア」を祝うのは、すべての人が神の似姿としてのいのちを頂いて存在しており、人のいのちが神と共にあることの喜びと希望に輝くとき、いのちの源である神の聖なる光を帯び、その光によってあらゆるものの救いの泉が、人間を通して現れることを祝うのであり、あなたもわたしも神の存在をはっきりと示す聖性を帯びていると教えているのです。 人間の尊厳、いのちの尊さが軽んじられる人道危機を目にするとき、私たちは暗く悲しい気持ちに覆われてしまいます。逆に人の良心の声が大切にされ、それに従い、喜び溢れる姿に接するとき、その周りのいのちも喜びに満たされます。どんな状況においても良心の声に聴き従い、目の輝きを失わずに生き生きとしている人の姿は、かけがえのない人間の聖性の輝きです。それは取りも直さず、創造主の聖性の現れであり、そこに救いの泉が湧き出るのです。
さあ、聖母マリアに倣って、みことばを受け容れて共に生き、与えられたいのちを輝かせ、あらゆるいのちに託された聖性の光に気付き、救いの泉を現わしましょう。ひとりの人間の聖性は人類全体の救いにつながっています。神は、人の聖性を通して、永遠のいのち輝く泉である救い主イエス・キリストの到来を現わされるのです。あなたの聖性の光、いのちの輝きをマリアの賛歌にあわせて共に喜び歌いましょう。
2024年正月 カトリック那覇教区
ウェイン・バーント司教
お告げの祈り
主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
〔アヴェ・マリアの祈り〕
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。
わたしは主のはしため、
おことばどおりになりますように。
(引き続き、上記の〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
みことばは人となり、
わたしたちのうちに住まわれた。
(ここでも〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。
祈願
神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを
知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、
復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。