6・23沖縄慰霊の日のお知らせ
6・23 に毎年続けてきた平和巡礼ですが、コロナ禍のために2 年続けて中止となっています。今 年はどうしたら良いかを、司教様と平和委員会とで話し合い、その結果、次のような対応を取ることが決まりました。
1.午前11:00 に安里教会で司教主式による、平和祈願と戦争で犠牲となられた方々のために、追悼ミサを捧げて、お昼12:00 に黙祷します。
2.「平和巡礼」として歩くのは、個人で計画しても構いませんが、教区レベルでは行いません。各小教区では、6 月23 日に沖縄慰霊の日のごミサを捧げて下さい。安里の時間に合わせても合わせなくても構いません。主任司祭と役員さんたちとで協議して、ミサの時間をご判断下さい。沖縄慰霊の日の典礼は、後日主任司祭たちに送ります。宜しくお願いします。
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復活祭メッセージ 「深い闇にかがやく光」
兄弟姉妹の皆さん、年ごとに祝うご復活祭ですが、毎回あらたなメッセージに触れることが出来ます。2000回以上も主のご復活を祝ってきたわしたち教会共同体は、この祝祭で何を受けとめ、何を表現し、何を伝えてきたのでしょうか。原点に立ち返ってその意味を今一度確認し、その深い喜びを分かち合いたいと思います。
イエス様の十字架上の死に直面した弟子たちやその他の従う者たちは、絶望の淵に立たされ、自らにも迫るかもしれない死の恐怖におびえていました。そんな中、イエスに従うご婦人たちは、受難にあえぐイエス様からも離れることなく、安息日の始まる直前で取り急ぎ納められた墓にまでついて行き、安息日があけた朝早くに、誠意を尽くしてご遺体を丁重に葬るために香油をもって墓を訪れます。その時点では、主イエスの復活を信じる者はだれもいませんでした。
ただ、ご遺体がない事実と「人の子は必ず、罪びとの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっていると言われたではないか。」(ルカ24:7)との天使のことばだけが彼らの中に深く残ったのでした。
あれほど幾度となく、はっきりとイエス様からその死と復活を伝えられていたにもかかわらず、それでもすぐにはこれらの出来事が神の救いの業とは、理解できなかったようです。その無理解を福音書は「家に帰って行った。」という表現で伝えています。「家に帰る」ということは、イエスに出会って「家を出る」(ルカ18:28,創世記12:1)こと、つまりイエスに従って歩むことを止め、元の生活へと後戻りすることを示唆しています。イエスの死と復活がすべての人(人祖からまだ見ぬ未来の人まで)に永遠のいのちをもたらす出来事とは気が付かなかったからです。
今では、毎年最も盛大に祝われる主イエスの復活祭ですが、当初は、十字架刑による一人の罪なき者の死とその死に立ち会った小さき者たちの小さな愛の行いに伴う、ご遺体喪失という少し驚くような体験に過ぎなかったようなのです。
しかしその後、時間をかけ、イエスに出会った多くの人の分かち合いの中で、そこに働く聖霊の導きを通して、この出来事こそは創世記に記され、幾世代にもわたって受け継がれ、待ち焦がれていた神との約束の実現、神の救いの業そのものだと確信していったのでした。
このようにして次第にイエスの死と復活こそは、実在したナザレのイエスが救い主キリストであり、神の約束、救いの業の成就そのものであること。そして、この事実こそは、救いにあずかるものの集い(教会)の原点であり、神の恵みの源泉、救いの歴史の頂点、その実現そのものであることに気付いていったのです。
こうして教会は、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)という主イエスのみことば従って、主イエスの死と復活という事実に秘められた人間の理解を超えた救いの神秘を伝え続けるために、復活祭という祭儀をかたちづくり、また信じる者の集いの中で時空を超えた霊的な事実として再現するためにミサ聖祭として伝えてきたのです。
ですからこの祭儀は、いわゆる歴史絵巻のような過去の出来事の模倣や記念式典ではなく、時間空間を超えて、過去・現在・未来を生きるすべての人のために死を受け、復活し、生きてそのいのちを与え続けるイエス様の存在そのものを現在化するのです。
ところで、今年も復活祭で入信の秘跡、洗礼・堅信・聖体をお受けになる那覇教区の新しい兄弟姉妹がいます。皆さん、おめでとうございます。皆さんは、秘跡によってキリストの死からの復活という過ぎ越しの神秘に与かり、古い人に死んで新しい人に生まれ変わります。でも、私たちの目にできる物質的現実は何も変化したようには感じられないかもしれません。相変わらずの日常の中で、相変わらずの私がいて、苦しいことも悲しいことも小さな楽しみも変わることなく、神の子に相応しくない愛の足りない自分に度々がっかりしてしまいます。でも、それでも私たちは秘跡という確かなしるしによってキリストに結ばれ、神の子としての生まれ変わっていくのです。その霊的な事実にすぐには気付けなくても、また自分ではなかなか感じ取ることが出来なくとも、弟子たちと同じように信じる者の集いの中で“共に歩むこと(シノダリティー)”を通して、自分の中に始まった主イエスの救いの業に徐々に徐々に気付いて行くのです。ですから、どんな状況にあっても決してうつむいて歩まないでください。自分の中に灯されたキリストの光に気付いてください。そして、どんなに小さな光であっても、その光を高々と灯し続けてください。あなた方のうちに灯されたキリストの復活の光があなたとあなたの周りの人を照らし、温め、導いてくださいます。
「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。闇が深ければ深いほど、どんなに光が小さくともその輝きは増します。パンデミックなどの様々な災禍や戦乱の深い闇にこそ、あなたの信仰の光は必要とされ、より輝きを増すのです。さあ、小さな親切を差し出して、どんな小さなことにも愛を込め、光の子としてあらゆる出会いを復活の光で照らし、温め、共に歩みましょう。
ウェイン・バーント司教
2022年2月11日:教区の日

■ 司祭叙階60周年
● 開南教会:有馬マテオ神父様
■ 金婚式の祝福を受ける方々
● 名護教会:藤巻ポーロ明・美也子夫妻
● 泡瀬教会:久高 武・和子夫妻
● 普天間教会:名護賢勇・恵美子夫妻
:山川直助・恵子夫妻
:赤嶺幸太郎・ハル子夫妻
● 安里教会:當山清彦・桂子夫妻
:松本 淳・達子夫妻
● 首里教会:南 敏勝・和愛夫妻
● 平良教会:平良 博・智代夫妻
毎年二月十一日は那覇教区創設の記念日として感謝の祭儀が執り行われ、その年に記念日を迎える方々に、司教から特別な祝福を頂くのが慣わしとなっています。
今年も昨年同様にコロナウィルスの影響で、いつものように教区センターに集まることはできません。各小教区で分散開催とし、十一日当日、各小教区で設定された時間にミサをお捧げして、教区の日をお祝いしてください。ミサで使用する典礼文は主任司祭たちに配られ、共に心合わせて祈るよう呼びかけられています。創立記念日を迎える教区のため、また今年お祝いを迎えられ方々のために私たちも心一つにお祈りいたしましょう。
2022年感染急拡大の状況について
那覇教区の兄弟姉妹の皆さん ちむがなさ 年明け早々、オミクロン株による感染拡大が急増し、これまで以上に注意が必要な事態となっております。感染力を増した今回のウィルスは信じがたいほどのスピードで広まり、抑制が非常に困難な事態を世界各地にもたらしています。これまで以上の緊張感をもって感染防止に務めましょう。 さて、これまで公開ミサ等の霊的奉仕を継続しながらも、教区内の諸施設における大規模感染がなかったことは、ひとえに皆さんの努力と協力の結果だと感謝いたしております。今後も教会としての活動を止めることなく奉仕に務めて行きたいと考えています。しかしながら各小教区におけるこれまでの感染防止措置では、より感染力を強化した変異株の拡がりを考慮すると不十分です。今一度それぞれの小教区におけるこれまでの取組を再点検し、改善箇所を洗い出し、更新しながら祈りのうちにキリスト者としての使命を果たしてゆきましょう。特に教会の霊的交わりの中心的役割を果たす司祭の感染は、多大な感染拡大につながる恐れがあります。意識して行動しましょう。また、感染者や濃厚接触者に対する言動に排除や差別が起こりがちです。感染によって身体的にも精神的にも大きな苦しみを受け、最も思いやりを必要とする弱い立場に立たされた方への配慮を決して欠くことのないよう、今後も県の対処方針に従いつつ、教会施設においては下記のことに重点をおきながらこれまで以上に感染防止策を徹底するよう改めてお願いいたします。 記 1) 県内外への渡航・往来を控え、やむなく渡航した場合はPCR検査等による陰性判定がなければ 、10日間はミサへの参加を控えてください。2) マスク着用だけでは十分ではないとも指摘されています。寒い時期ですが換気に特に気を付け 、集会時間の短縮、聖歌斉唱を控え下さい。また、ミサ前後の立ち話を避け、教会での会食等は 厳につつしんでください。3) 主日のミサへの参加義務の免除は誰にでも継続されています。特に高齢者、体調不良や不安を 感じる方は無理せず参加を控え、各人で可能な信心業(聖書朗読・ロザリオ等の祈り)によって霊 的生活を保ってください。4) もし、主任司祭と教会役員によって、いかなる感染防止対策をとっても危険性の回避が困難と 判断される場合は、司教との協議により公開ミサを休止することもできます。ご相談ください。5) 接触機会を極力減らす観点から、可能な限りミサ以外の諸活動の延期や休止をお願いします。以上 2022年1月7日 カトリック那覇教区 ウェイン・バーント司教
2022年 年頭挨拶 カトリック那覇教区長 ウェイン・バーント司教
那覇教区の兄弟姉妹の皆さん、新年のお慶びを申し上げます。
新たな年を迎えるにあたり、皆さんとすべての民の平和と幸せを切に祈り求めます。猛威を振るう自然災害やパンデミックからすべての人が守られ、誰一人失われることのないようにと。
しかし、どんなに祈っても新たな危機は訪れ、多くの命が失われてしまいます。でも、それでも私たちは、いのちの与え主なる御父のお望みを信じ、その実現に向けて歩みを進めるために祈り求めることを止めません。なぜなら、これらの不幸は、神からのものではなく、むしろ人間の、神を無視した生き方がもたらした結果だからです。
聖書は、神が人をご自身の似姿として存在させたと教えます。そして、この被造界を神のように愛し、創造者のように創造的に用いるように委ねました。
はたして、これまでの人類の歩みはそのような歩みだったでしょうか。神の愛の溢れ出として生み出されたこの世界を、神のように愛でてきたと言えるでしょうか。
自然に対して、あるいは他者に対して、謙虚に共に生きる・共に歩む道を選択してきたなら、多くの不幸をもたらす環境破壊や温暖化は回避できたことが証明されつつあります。
もしそうならば、私たちにはまだ希望が残されています。それは、私たちひとり一人の回心とその広まりである人類全体の回心の可能性が残されているからです。すべての人が神に立ち返って、共に歩めるなら、必ず事態は快方へと向かうでしょう。しかし、神への立ち返りは、人間の自由に委ねられています。個人的な回心はまだしも、他者をしかも人類全体の回心をとなると、もはや不可能にしか思えません。実際、人間には不可能なことでしょう。
しかし、神にはお出来にならないことは何一つありません。「全能の父である神を信じます」とは、具体的にはこのようなことを信じることだと思います。そして、私たちは全能ではないことを認めて神により頼むことによって、父なる神への回帰への旅を始めることが出来るようになります。そのためにイエス様は私たちの一人となり、神への回帰の路を切り開いてくださいました。また、その旅路の導き手なる聖霊を送り、ひとり一人を内面から回心へと導き、民全体=人類全体を神へと立ち返らせるのです。ひとり一人の回心では足りません、民の回心=人類としての回心が求められています。
こうして、三位一体の神への信頼と委ねをもって、神と共なる共同体として神への歩みをはじめるとき、私たちは、もはや何が起こってもそれに誠心誠意対応すればそれでよいのです。誠実に現実に向き合うこと、その現実を通じて語りかける良心の声に誠実に応えることで、私たちは神の創造の業に参加し、神の民としての役割を果たすことになるのでしょう。
「まくとぅそーけー、なんくるないさ」(誠実になさい、そうすればおのずからなる)。人間の仕業によるのではなく、神=善に満ち満ちた世界となるよう求め、行動しましょう。それが絶えざる創造の業を受け継ぐこと、自分自身と被造界を再び神へと向かわせること、自分と被造界への責任を果たすことになるからです。
シノドスが始まりました。そのテーマは「交わり・参加・宣教」です。その意味をあるシスターは美しい言葉で説明しています。「神の国は交わりの中で芽生え、共に歩むことを通して成長し、愛を生きる所に実現する。」
この言葉に触発されて今年の教区目標を定めました。
さあ!皆で共に「交わり深め 力あわせ 救いのおとずれ広げよう」
お告げの祈り
主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
〔アヴェ・マリアの祈り〕
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。
わたしは主のはしため、
おことばどおりになりますように。
(引き続き、上記の〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
みことばは人となり、
わたしたちのうちに住まわれた。
(ここでも〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。
祈願
神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを
知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、
復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。