2024年6.23 沖縄慰霊の日
ウェイン司教 平和メッセージ
神のまなざし 島人(しまんちゅ)の目線
― 島人のまなざし ―
碧い海、青い空。遠い彼方を見つめるまなざしは、まるで見えない世界を見ているかのよう。島人の目線は、狭い地上ではなく、無限に広がる海のかなた、空のかなたにいつも向けられている。まるで見ることのできない海のむこうからやってくる何か良きものの訪れを待っているかのように。
小さき島での生活は、他所とのやり取り、交易によって豊かになり、成り立ってきました。こうして、交流を大切にする文化が育まれ、他所とのつながり、他者との信頼が何よりも大切にされる島社会が形成されたのでしょう。「万国津梁・ばんこくしんりょう」(
万国を結ぶ懸け橋)という言葉もこうした経験から生じた自らの理想像と言えるのでしょう。
またこのような目線で他者の見る沖縄の視点は、「いちゃりばちょーでー、ぬーぬふぃだてぃぬあが」(出会えば兄弟、何の隔たりがあろうか)というホスピタリティ溢れる黄金言葉(くがにくとぅば)をも生み出しました。それは、周囲を海に囲まれた小さな島という環境によって培われ、与えられた賜ものなのかもしれません。
このように友好的な、誰をも兄弟姉妹として迎え入れる文化は、時として、特に悪意に対しては無力であるかのように思われがちです。それゆえ、侵略や敗北、また被支配への恐れから他の多くの国や地域が武装し、暴力的な手段を選択するのでしょう。しかし沖縄は、凄惨な地上戦の戦場とされ、戦後のあらゆる苦難を経てもなお、「いちゃりばちょーでー」の精神を保ち続けています。
どんなに敵対し、搾取し、支配し、すべてを奪おうとする相手にさえも非暴力の抵抗を貫いています。それは、人間としての弱さを認めることからくる相互扶助の精神とそれに基づく他者尊重の表われなのです。
このように私たち人間が他者を必要とし、他に頼らなければならない存在であるならば、それを認め、他者と協力して共に生きることを目指すのか、あるいは自己の必要性を満たすために力ずくで他から奪い取るのかの選択を迫られる存在でもあるとも言えるのでしょう。
― 誰のための平和? ―
平和・共生・協調の理念は、すべての人の共通の普遍的な願いであるはずなのに、同じ理念を目指しながらも、一方は他者の存在を必要とする立場から「対話」を選びますが、他方では同じ平和を理由にして、自己防衛のためにと「武力」を選択しています。
「自分達の安心・安全」だけを平和と考え、これを守ろうとすることがエスカレートすると、更に悪いことに「自分たちの平和」を守るための戦争は、自分たちには被害の及ばない他の場所を選んで行うようになります。
いのちと存在を破壊する戦争、しかもそれが一部の地域、一部の人間が犠牲となるように仕向けられた戦争ならば、これはもはやジェノサイドと言わざるを得ません。
一部の人間の犠牲を前提としていることを覆い隠すのに都合のいい言葉があります。「防衛」という言葉です。
しかし、一地域の犠牲を前提とする「防衛」とは、いったい誰を守っているのでしょうか。何を守っているのでしょうか。
「攻めなければ攻められる」防衛論が一見正論のように思われがちですが、それは、戦禍が及ばないように守られた安全な場所にいる人々の理論です。戦場とされる場にいる人々の視点に立てば、有無を言わさず人に苦難と死を無理強いする凶悪な考えであることは明らかです。
― 沖縄の視点から ―
かつて戦場(いくさば)とされた沖縄の視点からすると「攻めれば、必ず反撃される」「武装こそが武力行使を招く」のであり、九十九%の国民を守るためには、一%の人間の犠牲は致し方ないと言う考えは、とんでもない暴論です。
実際、九十九・四%の国土(沖縄県以外の地域)を『守るために』国土の〇・六%の県土は、国策によって敵国に差し出され、そして今も供与され続けています。さらにこれに加えて、今度は中国を念頭にかつての敵国同士が結託し、再び沖縄を武装強化し、戦場にする準備が始まっています。
ミサイル攻撃が主流の現代の戦争では、どんなに『守備』を唱えても守りようがないことは誰の目にも明らかです。それでも沖縄に軍備を増強するのはなぜなのでしょうか?
最初の攻撃を避け、戦争の始まりを察知し、本当に守りたい多数者への犠牲を軽減するためではないでしょうか?
強大なミサイル攻撃に東京も大阪も福岡も何処も安全な場所ではないはずなのですが、どうして
そこに迎撃システムは配備されないのでしょうか?
それはそのような軍備がなされた場こそが最初の標的となるからです。ミサイルはミサイルの呼び水です。そのようにして大都市へのミサイル攻撃を遅らせるため、あるいは躊躇させるため、あるいは戦略、策略の手段とするために沖縄とそこに住む人々をまるで道具のように扱うことは、誰にもけっして許されません。
なぜなら沖縄のすべては、日本・中国・米国、あるいは世界中のあらゆる国や地域と同じ価値と権利を有しており、その存在は誰によっても侵害されてはならないからです。すべての人が自分の町にミサイルが置かれ、そのことで標的になると考えてみるべきです。強制的に危険な状態に置かれることを自分事として、当事者として考えるべきです。沖縄の視点から、防衛力強化の実相を見るべきです。
― 神のまなざし ―
私たちが「父」と呼ぶ神様は、すべての人の『父ちゃん』です。だから、あなた方は兄弟姉妹として「自分のように互いに愛し合いなさい」と命じる「いちゃりばちょーでー」の神様ともいえます その父である神は、「一匹の見失った羊を捜すために、他の九十九匹を置いて出かける」神でもあります。
九十九%を守るために一%を犠牲にするお方ではけっしてありません。
神のまなざしは、常に助けを必要とする者に向けられ、いのちが失われないよう、弱きものを探し求めています。そして、弱きものの立場に立って寄り添い、必要な助けの手を差し伸べようとなさっています。
世界各地の戦争・紛争を沖縄の視点で、そして神のまなざしで見てみましょう。そこにこそ解決の糸口は見出だされるはずです。
仕方ないで済ませないでください。
戦争によっていのちを奪われ、脅威にさらされ、苦難を強いられている人の立場から考え、その立場に立った選択をしましょう。あなたのその選択こそが、末永く続くすべての存在を支えるまことの平和をもたらす神の手となるのです。
そして、この沖縄の地に眠るすべての霊の声に応え、すべての存在と共に、まことの恒久平和を祈り求め、あらゆる戦争行為を止めるため、決して諦めることなく完全な武装放棄に向けて行動することを誓いましょう。
2024年 復活祭司教メッセージ
皆さん、ご復活、おめでとうございます。
Happy Easter!; Feliz Pascua a todos
Chúc Mừng Lễ Phục Sinh; Maligayang Pasko ng Pagkabuhay!
キリストが死から生命へ
復活徹夜祭に多くの兄弟姉妹が入信の秘跡、すなわち洗礼、堅信、ご聖体を受け、わたしたち教会共同体の新しいメンバーになられました。こころからお喜び申し上げます。
復活徹夜祭の典礼に次のような導入の言葉があります。「皆さん、主イエス・キリストが死から生命へお移りになったこの最も聖なる夜、母である教会は、皆が一つに集まって祈りのうちに徹夜するよう呼びかています。わたしたちは神のことばを聞き、 洗礼と感謝の祭儀によって主の過越を記念します。こうして、わたしたちはキリストとともに死に打ち勝ち、神のうちに生きる希望を持つのであります。」
キリストが死からいのちへお移りになったことはわたしたちの信仰の核心です。わたしたちがキリストの死に対する勝利にあずかるために洗礼はあるのです。復活徹夜祭で朗読されるローマ書(6・3-11)が教えているように、洗礼とはキリストの死と復活にあずかること、キリストとともに死に、キリストと共に新しいいのち生きるようになることです。罪に支配される古い自分が死に、キリストの復活のいのちを受けた全く新しい人間として生まれ変わることを意味しています。
しかも、洗礼によるキリストの死と復活への参与は、肉体の死後のことではなく、今この世に生きている時からすでに始まるいのちへの生まれ変わりなのです。
同じことを、復活徹夜祭の第七朗読エゼキエル書 (36:25-26)は次のように教えています。「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての遇像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と。だから私たちは、洗礼によって生きながらにして、全く新しく生まれかわることができるようになるのです。外見は変わらずとも、あるいは内面も弱さにあふれていても、わたしたちはありのままでキリスト・イエスに従い、何度誤ってもその罪を認めて神へと立ち返る時、すでに神への道を歩んでおり、新たないのちに生きる者となっているのです。どんなにみじめで苦しい状況にあろうとも、どんなにしあわせで満ち足りたときにあっても、神への愛と隣人への愛に生きるとき、私たちには自覚できなくても、すでにキリストと共に死からいのちへ移っているのです。この救いの神秘に生きましょう。まるで死後のみの世界であるかのように語られてきた天国にではなく、キリストの死と復活によって今、すでに、ここにある、まことのいのちの道、キリストの道、神の御許(みもと)への道を歩みましょう。
信頼とゆるしと奉仕の道、愛の道を歩むことによって、あなたのうちにすでに始まっている神のいのち、永遠のいのちを輝かせましょう。その輝きは、さらなる救いをもたらします。
徹夜祭の洗礼式では司祭はすべての受洗者(全てのキリスト者)に次のことばを述べます。「あなたがたは新しい人となり、キリストを着るものとなりました。神の国の完成を待ち望みながら、キリストに従って歩みなさい。」
2024年2月11日「教区の日」
あけましておめでとうございます。新たな年を迎え、新たな歩みをはじめるにあたって、この被造界で同じ時を共有するすべてのものに、心から新年の挨拶を送ります。そして、この素晴らしい被造界を創造し、時を定めて導き、わたしたちに歩み寄って時の中に身置き、今もいつも救いのみわざを成し遂げてくださる三位一体の神を賛美します。
創造による時のはじまりと救い主の到来の時のはじまりは、しばしば対比的に語られます。原初の時のはじまりに置かれた神の似姿は、自身の聖性に気付かず、自ら聖なる神を離れることによって、神からの永遠のいのちを失ってしまいました。他方、救い主の到来による新たな時のはじまりに置かれた神の似姿は、いのちの与え主と共にいることによって聖性を保ち、永遠のいのちにいたる神の救いのわざの協力者となったのです。その根本的な違いはいったい何だったのでしょうか? 人祖は、自らが神のようになれると思い、神でないものの言葉を信じ、神以外のものを選択しました。他方、マリアは神のみことばを受け容れ「おことば通り、この身に
成りますように。」(ルカ1・38)と表明し、「神は我々と共におられる」(マタイ1・23)ことを信じ、神と共に生きることを選択したのです。
いのちの与え主である神と共にいることで、いのち輝くマリアの姿に接したエリザベトは、その胎内の子と共に喜び踊り、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」(ルカ1・45)と歓喜の叫びをあげます。こうして救い主イエスは到来し、救いのわざが始動することになったのです。神の呼びかけに「はい」と応えること、そして「私たちと共にいる神」と共に生きること、神から離れないことによってマリアのいのちは輝き、その尊い聖性の光を灯し、神のわざに協力し、救いの泉である主イエスを現わしたのです。
新しい年のはじめに教会が「神の母マリア」を祝うのは、すべての人が神の似姿としてのいのちを頂いて存在しており、人のいのちが神と共にあることの喜びと希望に輝くとき、いのちの源である神の聖なる光を帯び、その光によってあらゆるものの救いの泉が、人間を通して現れることを祝うのであり、あなたもわたしも神の存在をはっきりと示す聖性を帯びていると教えているのです。 人間の尊厳、いのちの尊さが軽んじられる人道危機を目にするとき、私たちは暗く悲しい気持ちに覆われてしまいます。逆に人の良心の声が大切にされ、それに従い、喜び溢れる姿に接するとき、その周りのいのちも喜びに満たされます。どんな状況においても良心の声に聴き従い、目の輝きを失わずに生き生きとしている人の姿は、かけがえのない人間の聖性の輝きです。それは取りも直さず、創造主の聖性の現れであり、そこに救いの泉が湧き出るのです。
さあ、聖母マリアに倣って、みことばを受け容れて共に生き、与えられたいのちを輝かせ、あらゆるいのちに託された聖性の光に気付き、救いの泉を現わしましょう。ひとりの人間の聖性は人類全体の救いにつながっています。神は、人の聖性を通して、永遠のいのち輝く泉である救い主イエス・キリストの到来を現わされるのです。あなたの聖性の光、いのちの輝きをマリアの賛歌にあわせて共に喜び歌いましょう。
2024年正月 カトリック那覇教区
ウェイン・バーント司教
お告げの祈り
主のみ使いのお告げを受けて、
マリアは聖霊によって神の御子を宿された。
〔アヴェ・マリアの祈り〕
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。
わたしは主のはしため、
おことばどおりになりますように。
(引き続き、上記の〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
みことばは人となり、
わたしたちのうちに住まわれた。
(ここでも〔アヴェ・マリアの祈り〕を唱えます。)
神の母聖マリア、わたしたちのために祈ってください。
キリストの約束にかなうものとなりますように。
祈願
神よ、み使いのお告げによって、御子が人となられたことを
知ったわたしたちが、キリストの受難と十字架をとおして、
復活の栄光に達することができるよう、恵みを注いでください。
わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。